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志村正彦はなぜ死んだのか?本人と関係者のエピソードから見る永遠の謎

「あと20年、30年は続けます!」

そう言っていたくせに、その年のうちに死んでしまった。
志村正彦とはフジファブリックの元ボーカルで、2009年のクリスマスイブに亡くなったミュージシャンです。享年29歳。なぜ?なぜ?と思うけれど、死因は未だ不明です。


東京、音楽、ロックンロール 完全版

フロントマンのいないバンドなんてそのまま空中分解しそうなものですが、ギターの山内総一郎がボーカルを引き継ぎ、フジファブリックは現在も活動中。武道館でライブをする程ですから相変わらず売れっ子です。

とはいえど、私は志村時代のリアルタイムも知りません。当時の観客にどのように受けいれられていたのか、知らないわけです。

フジファブリックのことは残ったメンバーが活動を続けていなければ、永遠に知らないままで人生を終えたことでしょう。


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そんな自分ですが、一応、これでライターの端くれ。

過去の志村正彦インタビューをもとに「志村の性格&エピソード」「志村の体調」「メンバーや関係者の話」などなどをまとめてみました。

記事の構成上、1週間前に知った話ではなく「もう10数年以上、当然私は知っていました!」みたいなトーンで展開しますが、そこは心を大きくして。私がそうであったように、フジファブ初心者がいつかどこかで検索するだろうと想像し。

(※その後、もっとリサーチ!志村の性格&山内、ダイちゃん、加藤さんらメンバーとのエピソード、てんこ盛りですよ↓)

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フジファブリックと志村正彦の死を同時に知った

えーと、昔からのファンだったり、志村の死因(不詳だけど)を知りたい方はここは読み飛ばしてください。フジファブの背景と個人的な話になるので。

私が志村正彦のことを知ったのは偶然見た『ミュージックステーション』(19年8月放送)でした。

過去のライブ映像を用い、現ボーカルの山内総一郎が代表作である『若者のすべて』を志村ともに歌うという演出。泣けそうでしょ。実際、この人たちのことを全く知らなかったのに、グッとくるものがありましたね。


若者のすべて

個人的には、この後1週間くらいで100回くらい『若者のすべて』を視聴しました。現在のボーカルである山内総一郎バージョン(好きです)、志村正彦バージョン(もちろん、好き)、さまざまなライブバージョン、ミスチル桜井、槇原敬之(これも好き。後にちょっと残念なことになりましたが)、柴咲コウ、藤井フミヤらのカバーバージョン等々。


若者のすべて (Makihara Band Session)

『若者のすべて』志村版PV

ともあれ、『ミュージックステーション』でフジファブリックを知った人は結構多いと思います。

グーグル検索でも放送直後は普段の40倍くらいの勢いとなり、志村正彦がらみの本はAmazonで売り切れ続出、メルカリで取引額高騰。2倍とか3倍とか4倍の値段がついたりね。

直後に出したベストCDも一時は入手困難になった模様です。

フジファブ人気急上昇の理由は…。

人気急上昇の理由を自分なりに考えると。

『若者のすべて』が名曲である、ということは間違いがないです。そうして、残ったメンバーたちが解散を選ばなかったことにも心を打たれた。

現ボーカルの山内総一郎はもともとギター担当だったわけです。「やっぱり志村の歌がいい!」などと言われるだろうことは承知の上で、歌うことを選択した。メンバー全員、今まではほぼ志村が曲を作ってきたところ、自分たちで作詞作曲する。その覚悟の大きさには言葉が出ないわけです。

※メンバーのエピソードを含め、以下に詳しく書きました。

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ここまでは他人に説明しやすい理由2つ。

でもって、その正当さの上に、ひと様にはあまり言いにくい理由が重なりました。以下に、番組を見ていた当時の心情を連ねます。ちょっとバカっぽいですよ。

~あら、いい曲ね。好きかも。
~今のボーカルも、前のボーカルもかわいい。
~両方ともかわいいのは珍しい。
~なんで、こんなかわいいのに死んだのか。29歳で死んじゃうなんて、なんで?

繰り返しますが、私はもう中年なわけです。若い男子を見て「かわいい、かわいい」と言うのは気持ち悪いも甚だしい。

だけれども。
「名曲だ」「彼らは立派だ」と感じる一方で、頭の中でぐるぐる巡ったことは「こんなにかわいいのに、なんで29歳でしぬわけ?」

正直を言えば、「志村正彦の死因を知りたい」という下世話な欲求が「フジファブリックを知りたい」と思う一番の取っかかりだった。

現金なもので、のちには「なんで、志村が生きている時にフジファブに巡り逢えなかったのか?」と本気で思うようになるわけですがね。

で、この時の自分はミュージックステーションの放送中にスマホ検索に走ったわけです。

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なぜ? 志村正彦の死因は不明なんだけれど

死の2週間前は体調いいって書いてたのに、なんで?

志村正彦はなぜ死んだのか?

その答えは永遠にわかりません。

2009年12月25日、前日から連絡が取れない志村を案じてマネージャーが自宅マンションを訪ねたところ、室内で亡くなっていた。司法解剖の結果、「死因不詳」だったと。まぁ、この発表が未だに様々な憶測を呼んでいるわけです。

単なるいちファンとして、インタビューなどを読んだ印象では自死ではなさそうですし、ドラッグ(合法ではない方の)をやるタイプにはもっと見えない。

志村はブログ日記を書いていました。以下は生前最後、亡くなる2週間前の日記です。


東京、音楽、ロックンロール 完全版

最近全然(風邪を)ひきません。体調もかなり良好です。(中略)ここまで健康だとなんか・・・年末にこう・・・風邪が来そうで怖いのです。まぁ、引いている暇など微塵もないのですが。(2009年の12月10日)

この呑気っぷりには、ちょっとぐうの音も出ませんでした。なぜなのか?なぜなのか?

風邪どころか。風邪どころか。あなた、もうすぐしんじゃうんですよ。

ツッコミつつ涙に濡れた人たちは数多いたはず。

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なぜ? メディアで死を連呼していた志村

志村は死の前日か前々日に、事務所の忘年会に出席しています。この日の写真は彼の地元・富士吉田市で行われた『志村正彦展』(故人を偲ぶイベント)でも展示されました。「笑顔だったけど、儚げというか死を予期しているかのようだった」みたいなファンの書き込みがあったり。

魚の目 
「今、思えば……」という類の話

そう、その類の話ですね。その類の話だとお断りしつつつ、志村には来たる死をイメージさせるものがあまりにも多くて。

フジファブリックの初期には『黒服の人』という曲があります。タイトル通り、葬儀、おそらく出棺時の状況を歌ったもの。

「笑ったあなたの写真」を見送りつつ、みんなが泣いている。重いというより、美しい曲です。ただ、若いミュージシャンがテーマとして選ぶのは非常に珍しいのではないか。


黒服の人

また、よく言われることですが、生前最後のアルバムとなった『CHRONICLE』(09年)のインタビュー。志村はあらゆるメディアで「死」を連呼しています。

僕は、”この作品を作るまでは死ねないな”って思っていたので、体調を崩さないように、普段食べないものは絶対に食べないようにしてたんですね。(中略)

僕も”思ってることをすべて言えた!”っていう達成感もあって。

だから、ある意味もう死んでもいいんです。

                   ~~コーディングしたスウェーデンでの食生活を尋ねられ


CHRONICLE(DVD付)

で、体調を留意して何を食べていたかというと、セブンイレブンの焼肉弁当。健康法としてダメ過ぎです。

そうやって作品を完成させて「死んでもいい!」と思った半年後に本当にいなくなってしまうとは。

なぜ? 志村正彦、日記に綴った体調不良

前半は食の話も多いのに

また、志村の著書『東京、音楽、ロックンロール』を読むと、心身ともに「結構マズいんじゃね?」みたいな状態だったことは感じられます。

この本の元は公式日記(04年~09年)なので「レコーディング中!いい曲ができた!」「ライブでベストアクト更新中」といった基本ポジティブなことが多いのです。特に前半は20代男子らしく食への欲求がさく裂していて微笑ましい。

「しゃぶしゃぶ食った」
「ラーメン食った」
「ツアー行ったら何食べようか」
「吉田うどん(志村の地元・吉田富士市の名物)を食べるためだけに山梨に帰った」
「名古屋で味噌煮込みうどん、食べた。美味しかった」

07年ごろまで『CDデータ』で学食を食べに行く連載もやっていましたし。けれど、こうした食に関する欲求は後半になるに連れ、減っていきます。

08年には「食欲がなく体重が50キロ切りそうな時期があった」みたいな記述があったり。日常の楽し気な音楽活動のさなかにサラッとそれが出てくるものだから、よりいっそうギョッとする。

志村正彦のパニック発作

同書には本人による当時の日記の振り返りがあります。「それ、言っちゃっていいの?」みたいな裏話も多くて。

「いつの頃からか、気持ち悪くなるので夕飯が食べられなくなった」
「この時、明るい調子で日記書いているけど、実は最悪だった」
「パニック発作で飛行機、電車とも乗れない状況になっていた」
「こんなこと続けてたら、あと数年で死んじゃいますよ、と医者に言われた」
「曲ができなくてどんどん自分が嫌いになっていった」
「もうフジファブリックを脱退しようとすら思ってた」とか。

 

 

ほんとに疲弊しすぎたんですよ。いろんなこと無理してたんですよ、ミュージシャンとしてそれは当たり前なんですけど、ちょっと想像を超えるプレッシャーがあって。

羽田で降りて倒れて、救急車呼ぶか呼ばないかってところから始まって、タクシーの後部座席に無理やり寝かされて、家に放り込まれたって感じなんですけど。

(札幌からの移動中、機内で小指が痙攣し始め、気分が悪くなったくだりから『東京、音楽、ロックンロール』)

 

(08年5月の地元ライブのあと、バンドをやめようかと考えたことに対し)

音楽と向き合ってて、『こんな疲れること一生やってて生きていけるのか? 大丈夫なのか?』っていうのがあって。

                『ロッキング・オン・ジャパン』2009年5月号

このインタビュー自体は亡くなる半年から1年以内のものだと思われます。本人がこの時点で死を予期していたのなら、逆に言わないようなことでもある。

一方で、過去形で語っていますが、実はその時点で解決していたわけでもない。パニック発作はずっと治療していたようなのでね。

マジメすぎるくらいの性格

パニック発作起こすほどに志村はマジメな性格でした。

高校時代に上京費用を自分で貯めた

高校時代にバイトを掛け持ちし、上京費用を自分で貯めるとかね。引っ越し代と当面の生活費も。

勉強する暇はないから授業の内容は「こんなこと習ったな」と頭の中で適宜振り返るクセをつけてたとかね。おかげで進学校の中でも成績はまずまず。立派な少年です。

魚の目
完全にオバサンの目線になってるけど。

アルバイトしたピザ屋やコンビニで「正社員にならないかと度々言われた」みたいな、自慢なのか何なのかよくわからない発言も残っている。

実際、優秀だったのだと思いますよ。「成功するために今、何をすべきか?」みたいなことを逆算する戦略性もある。

で、そのルートに向かって正しい努力もできる。おそらく普通に会社員になったとしてもそれなりに出世できたのではないかと。

メンバーがいい曲作ると落ち込む志村

一方で、潔癖すぎるというか自分で自分を追い込むところがあった。

「こうじゃなきゃダメだ!」「常に戦ってます!」「全部オレがやる!」みたいな発言も多い感じ。この辺、中年の自分が「彼の若さ」「彼の青さ」を最も感じるところでもある。

例えば、3rdアルバムの『TEENAGER 』には他のメンバーが作った曲もあります。


TEENAGER

志村は内心、それがとても苦しかったらしい。「自分は曲が書けないのに、メンバーがどんどん曲を作ってくる。それもいい曲ばかり。俺の存在意義って何なのだろう???」みたいなね。それでどんどん落ち込んでしまう。

魚の目
曲書いてもらえてラッキー!じゃないのか

歌詞にある「否定されるのが怖い」は志村の本音だよね

ところで、志村正彦の日記を読むと「ミュージシャンってこんなに忙しいのか!」とびっくりします。

年に数日しか休みない年があったり。なんかライブばっかりやってる感じ。その合間に曲作りして、打ち合わせしてレコーディングとまたツアー。

札幌行ったり、福岡行ったり、スウェーデンにレコーディングとか、パニック発作はどうしたのか? 薬で抑えつつガマンして飛行機に乗っていたんでしょうか。心身疲労は激しそうです。

晩年のライブなんかでは声出てないし、ロッキング・オン・ジャパンの夏フェスなんかは青白い顔で『SUGAR!!』歌っていたし。

魚の目
その上、作品クサされたりね

今でこそ、志村時代のアルバムはAmazonレビューでどれもこれも「☆☆☆☆☆!!」みたいなことになっていますが、当時は賛否両論だったみたい。特に作風がポップになった3th『TEENAGER 』と4th『CHRONICLE』あたりは叩かれることもあったらしい。

その『CHRONICLE』(09年)には女々しい歌詞がてんこ盛りでね。


CHRONICLE(DVD付)

自伝的作品らしいのですが「どうせ僕なんか」とか「否定されるのが怖い」とか「僕に愛想をつかさないで」とか「気がつけば、またしても一人」とかね(※歌詞は著作権がうるさいので意訳。実際にはもっとリリカルです、当然)。

この卑屈さがファンの心をつかんで離さないわけですが、これが売れっ子ミュージシャンの日常所感なのか?とも思う。

多分、もう少し経てば、多分、30代になったのなら、人に任せることを知り、肩の力が抜け、もっと楽になったんじゃないのかと年輩者としては思うのですがね。

亡くなる1か月ほど前、事務所の先輩である奥田民生から「これから楽しいことばっかり待ってるぞ!」と言われたそうですが、似た意図だったのではないかと勝手に思っています。

志村だって、最後のツアーのMCで「あと20年はやりますよ!」と言ってたのにね。「フジファブリック、これから、どんどんすごいことになりますよ」と言っていたのにね。かわいい笑顔で客席に語り掛けていたのに、その彼はもういないのです。


Official Bootleg Movies of “デビュー5周年ツアー GoGoGoGoGoooood!!!!!'[DVD]

なぜ、いない?メンバーや友人たちは志村の死をどう受け止めたのか?

無責任な見出しだと思いますよ、自分でも。

どう受け止めたか何も、突然の死を受け止められる人はいないのであって。

なんとかならないかなって考えてます(クボケンジ)

2009年12月27日、メレンゲのクボケンジは自身のブログにこう書きました。

大親友が亡くなりました。
どうしたらいいかがわかりません。
なんとかならないのかなってずっと考えてます。

~~クボケンジ『O.N.E.DAY』

死んでしまったのに「なんとかならないかなって」と考えてしまうギャップがどうにもリアル。

志村正彦とクボケンジは同じマンションに住み、互いの家によく行き来していました。

志村の日記にもたびたび登場しており「バンドメンバー以外で親友と呼べるのは彼(クボ)だけです」なんて記載もあった。

クボケンジはその後、志村の地元・富士吉田市でオマージュ的なライブもしています。何の取材だったか失念しましたが、彼が音楽機材だらけの自室を公開した時、志村の写真が飾ってあって胸にくるものがありましたね。

志村正彦のボイストレーナー、りょんりょんさんの話

りょんりょんさんとは、志村のボイストレーナーです。

葬儀に際し、彼女はブログのコメント欄を志村ファンに開放。そのメッセージを印刷して届けたという。

志村急逝の一報がある前に「フジファブのリハ中止」を聞き、「メンバーの誰かがインフルにでもなったのかな?」と周囲が言っているのを聞いた。その時にどうもイヤな予感を拭えなかったそうです。

最近志村君は体調がいいと言っていた。
でも もともと常に体調が悪そうに見える男だったし
シャイすぎるし 何かと私にとってすごく心配な生徒だった。
家にこもって一人で曲作りばっかりしているタイプ。
ジムに通ってくれ!頼む!筋肉作らないと体冷えるから!
といくら言ってもお金と時間を すべて楽器や機材と曲作りに使っていた。

~~ボイストレーナー りょんりょんさんのブログから

魚の目
常に体調が悪そうに見える男って……

そういうイメージですけどね。

志村正彦とは長い付き合いだったらしく、口数の少ない彼がだんだんと心を開いていくさまが読んでいて切なくなりますね。

奥田民生が号泣した日

志村急逝の数日後、奥田民生は年越しロックフェス『カウントダウン・ジャパン』に出演しました。そこで、フジファブリックの『茜色の夕日』を突然歌った。

歌の後半はクールな民生が号泣でした。

関係性を補足しますと、志村正彦は15歳で民生に憧れてミュージシャンを目指します。紆余曲折の後、民生と同じ事務所に入り、メジャーデビューを果たす。

たまにセッションしたり、お互いの曲をライブで歌ったり。雑誌で対談(2009年11月号『ブリッジ』)したり。


bridge (ブリッジ) 2009年 11月号 [雑誌]

亡くなる3週間前には一緒に飲みに行っていた模様。

ちなみに、『カウントダウン・ジャパン』にはフジファブリックも出演する予定でした。前述した(といっても、何十スクロールも前か?)志村の日記に「ここまで健康だとなんか…年末にこう…風邪が来そうで怖いのです。まぁ、引いている暇など微塵もないのですが」とあるのは同フェスを想定していたことと思われます。

一晩中歩き続け、顔も体も真っ赤になった(山内総一郎)

当日、彼らが出演予定だった時間帯にはセットリスト(演目)の通り、過去のライブ映像が流されました。残されたメンバーは舞台の袖でそれを見つめることしかできなかった。「あれは本当にどうしようもない気分だった」と現ボーカルで当時ギターの山内総一郎は語っています。

志村の急逝が伝えられたその前後の現実感は当然ない。

何にも考えられなかったですね。バンドのことも考えられないし。その日は夜だったんですけど、朝日が昇ってみんながカフェでお茶をしているような時間まで、ずっと1人で歩いていたんですよね。気づいたら体中、顔も真っ赤になっていました。

 ~~山内総一郎インタビュー

なお、フジファブリックのメンバーが志村の死について語るようになったのはしばらく経ってから。当時、フジファブはアーティストブック『FAB BOOK』の製作が大詰め段階にありましたが、そこでメンバーが志村の死を語ることはなかった。


FAB BOOK―フジファブリック

おそらく製作側もけん制したのだと思います。ただ、締めくくりのインタビューで山内総一郎だけが、「今後について、彼の代わりを探すのかと言われるけど、それはないと思うんですね」と話していたのが印象に残りました。

なぜ、いない?なぜ、消えた?(金澤ダイスケ)

キーボードの金澤ダイスケは当時を振り返り、「(自分のブログ日記に)何を書いてよいのかわからなかった。バンドメンバーであり友人の死は想像をはるかに超える。何もかにも訳がわからなくなっていた」と書いています。

また、日記をまとめた『週刊金澤 2007‐2014』のあとがきにはこうある。


週刊金澤2007-2014 (SPACE SHOWER BOOKs)

(日記の連載中に)たくさんの事があった。

一番大きいのは志村の死であろう。「死」という言葉を使ったが、自分の中では「いなくなった」という表現が近い。(中略)

あれから5年が経とうとしている(※14年当時)。

「ここにいない」という現実に対してはようやくわかってきたように思う。

しかし、「死」という「存在のないもの」を受け入れる事は未だできてはいないのだろう。考える度に訳が分からなくなる。まだどこかにいるんじゃないかとすら思っている。当時志村に対しての発言は殆どしていなかった。というかできなかった。(中略)

「なぜいない」「なぜ消えた」「死とはなんだ」「悲しさと悔しさは何に対してか」理解不能な事だらけであった。(中略)

バンドは今年デビュー10周年を迎えた。

世の中に”たられば”という言葉はないが、今とは違う10周年というものが存在するならば、一体どんな景色を見ることができていたのだろう。

~~金澤ダイスケ『週刊金澤 2007‐2014』

プロデューサー片寄明人氏の手記

志村正彦を語る時、プロデューサー片寄明人氏による手記は必読です。

志村との出会いから別れまでが綴られていますが、これほど魂を感じさせる手記もないだろうというほどの熱量。

片寄明人 Akito Katayoseさんの投稿 2012年10月22日月曜日

片寄明人はGREAT3のフロントマンで、フジファブの1stアルバム『フジファブリック』のプロデュースをした方です(シングルの四季版も)。

Facebookのノート投稿にして10ほど。制作秘話ではものすごく専門的なことも語られています(当然私はよくわからない)が、読ませるしワクワクもします。

「『銀河』の歌詞を少し変えてみようか」とアドバイスした後、次の打ち合わせでまったく同じ歌詞を持ってきた(!)志村のエピソードであったり。

若き志村の「(気乗りしない)そうっすね……」と「(ホントにやりたいと思っている)そうっすね!!」を聞き分けようとしていた片寄氏であったり。

「深夜に電話がなると十中八九志村くんだった」といったエピソードであったり。自分の音楽がちゃんと伝わっていないんじゃないかと悩む志村の姿であったり。

志村の死に対峙する場面は読んでいて息苦しいです。けれど、同時に「フジファブリック」を何度も聴き返したくなる手記です。

志村の地元、富士吉田市から。

志村正彦が好きだった『スクール・オブ・ロック』↓

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