天野貴元(あまの・よしもと)とは2015年に30歳で逝去したアマチュア将棋士です。
和服着替えるのマジで大変でした(汗)
いざ出陣! pic.twitter.com/F7ewIy9ea0
— 天野貴元 (@amanoyoshimoto) February 6, 2015
アマだけど自伝『オール・イン』や『奇襲研究所 ~嬉野流編~』などの著作もあるし、南Q太の将棋マンガ『ひらけ!駒』では、ちょっとチャラめなイケメン棋士のモデルにもなっている。
6才で将棋を始め、「羽生を超える天才か!」と長く嘱目されていたものの、プロまであと少しというところで奨励会の年齢制限に引っかかった。
ずっーとずっーと将棋しかやってこなかったのに26歳で投了。
その上、夢絶たれた翌年にステージ4の舌がんになる。
でもね、天野は自己憐憫なんかしない。したとしても、シニカルなユーモアに消化する。
舌の大半を摘出して普通に話せなくなった後も、余命宣告をされた後も、毒あるポジティブキャラは変わらなかった。
ここ数日、そんな彼のことを思い出し、著作の『オール・イン ~実録・奨励会三段リーグ』を読み返し、ブログを読み返したりしていたわけです。で、その生きざまのまざまざさ加減に何かを吸い取られてしまった気分で。
それくらい濃い人生を生きた人です。「淡々」と「濃厚」とを両立していた。今回はそんな天野貴元スペシャルです。私もライターの端くれ。本気で書きますよ。長いですよ。
天野貴元とは何者だったか?
小5で合格率20%の奨励会員に
天野貴元は1985年生まれ。
地元は八王子だったかな。学童代わりの将棋クラブで頭角を現し、小5でプロ棋士の登竜門である奨励会に入りました。
私は将棋に詳しくないのですが、奨励会って簡単に入れるわけもない。合格率20%とかかね。その中で階級があって、6級から始まり、初段、2段、3段リーグと全9段階。奨励会の3段リーグを抜け、4段に昇段したらプロです。
ただ、年齢制限もあって21歳までに初段、26歳までに4段に上がれなければ退会というルールがある。
ちなみに、奨励会生が4段(プロ)になれる確率はこれまた20%とか。
4%とかじゃないですか。
けれど、天野は「自分はプロになる。それは絶対に間違いのない確率」くらいに思っていた。彼は高校にも行っていません。「どうせプロになるんだから、学校に行ったってね!」みたいな、やなヤツキャラでもあった。
16歳で3段リーグ入りするも、酒、タバコ、麻雀尽くし
そんな天野は中3で初段になり、16歳で奨励会最上ランクの3段リーグに昇段した。ここを上がればプロなわけです。天野自身、当初は「3期(1年半)以内にプロ入りできるだろう」くらいに思っていたらしい。
若気の至りも混じり、前後から努力を厭うようになった。奨励会同期のマジメグループが1日10時間将棋ばっかりやってるところ、中学生で酒、たばこ、麻雀を覚え、夜通し遊びまくったりしてる。
万馬券をあててキャバクラ豪遊、シャンパンタワーなんてこともしてる。
ただ、この辺のエピソードは個人的には新鮮な気もします。
天才と呼ばれる人が荒くれ生活を送ることって前時代にはあったわけです。
前時代っていつなのか?って言われそうですけど、1970年代生まれの自分には割と馴染みの感覚でもあった。「ワルこそイケてる感」みたいな。
そもそも、プロ棋士ってどやったらなれるの?(仕組みを少し)
結果、放蕩息子・天野貴元はどうなったか?
プロ目前の3段リーグで1年半どころか、10年くらい足踏みします。
遊んでいたツケが回ったと言えばそれまでだけども、遊んでいなくとも易々と抜けられないのが3段リーグ。
奨励会は6級に始まり、5級、4級……初段、2段と上がっていくわけですが、3段まではある一定の成績を収めれば上がれるらしい。
一方の3段リーグはその名の通り、リーグ戦です。
だいたい30人から40人くらいいる中で、上位2位に入らないと4段(プロ)には上がれない。奨励会の3段リーグのメンバーは全員メチャクチャ強いわけです。対局は半期に1回あるそうですが、上位2人が抜けてもまた新たな才能が入ってくる。戦うメンバーがちょっとずつ変わっていくわけですね。
これは天野も書いていましたが、若い才能は3段リーグの古株を下に見ます。
入ったばかりの「16歳の3段リーグ」と、年齢制限ギリの「26歳の3段リーグ」。両者は周囲の期待も違うわけです。実際、その名をとどろかすような名人はあっさり3段リーグを突き破り、プロになっていったり。
最年少記録の昇段で藤井壮太は13勝5敗。ちなみに羽生さんの時代は3段リーグはなく「今の方がプロになるのは大変だと思う」と語ったことがあるらしい。
前述したように、なれるのは2割。8割はプロ棋士にはなれない。少年期から青年期の10年以上を捧げたとしてもね。
3段リーグの年齢制限で天野貴元は奨励会を去る
入った当初は3段リーグで下から2番目くらいに若かった天野ですが、やがて、自分がバカにしていた年かさの会員になる。その途上、後輩たちにどんどん追い抜かれる。意図せずして、3段リーグの主のようになっていく。
まったくね。
この年功序列のなさっぷりは苦しい。特に10代の頃って1歳の年の差すら大きい時代じゃないですか。
いつぞやは神童と崇められていた人が負け続けのビリ人間になることもありうる。だけど、プライド粉々になるとか、そんなこと言っていられる世界ではないし。
結局ね。天野貴元は3段リーグを抜けることはできませんでした。彼の同期生も誰一人プロになることはなかった。先ほど20%の確率と言いましたが、天野世代に関してはどういうわけだか0%。
「3期以内にプロ入りできる」と過信していた天野ですが、19期も三段リーグに身を置きます。で、26歳で年齢制限にかかり、奨励会を去った。2012年3月のことでした。
プロの道を絶たれた後、ステージ4の舌がんに
この時の、心の折れっぷりはいかほどだったか。
酒、タバコにギャンブルと遊んでばかりいたとはいえ、子どもの頃からプロの将棋士になる未来しか想定してなかった天野です。自信家キャラだっただけに、心境を察するにあまりある。
一方で、自伝の『オール・イン』や彼のSNSを読む限りは「残念だけれど仕方がない。これから自分ができることをするしかない」というスタンスは感じます。論理的な人なので必要以上に落ち込まない、このスタンスは闘病中も同じでした。
奨励会退会後の天野はLPSA(日本女子プロ将棋協会)に入りましたが、すぐに辞めた。その後はプロの麻雀士目指しかけたり、傍から見たら「何やってんじゃい!」みたいな時期があり、最終的にIT系の会社に拾われた。そこで、将棋事業部を立ち上げることになりました。
しかし、会社員となってひと月後。
「舌が猛烈に痛い!」と思って病院に行くや、舌癌のステージ4と宣告されてしまうわけです。まだ27歳。奨励会退会から1年後のことです。
「この度医師より正式に舌癌と診断されました。全ての仕事を中断し、来月上旬に入院手術を行う事が決定。なぜこんな事になってしまったのかは原因不明らしく、残念としか言いようがありません。
癌にはレベルが4つあって、一番ヤバいステージ4。さらに顎にも転移していてそっちはレベル1。手術は約12時間かかる大手術で、仮に助かったとしても言語障害が残るらしく、ごもるっていうか普通に会話ができなくなる事になりました。
淡々と説明を聞いてたけど、それでも人は生きていかなければいけない。~~2013年3月28日天野貴元のブログ「あまノート」より。
ある日突然、舌に電圧のような痛みが走ったと。鏡で見ると、舌の一部が紫に変色し、今にも穴が開きそうな質感になっていたと。
耳鼻科に行ったら「紹介状書きます。今日のうちに大きな病院に行ってください」と。
で、大きな病院に行くと「次回、家族を呼べますか?」と聞かれたと。
天野は気丈でね。「家族は呼べますけど、今、言ってください。僕は大丈夫ですから」と。そうしたらば、精密検査はまだというのに医者はこう断言した。「間違いなく舌がんです。おそらく転移もしているでしょう」と。
精密検査の結果、ステージ4で顎に転移もしていました。天野は告知から2週間後に成功率50%(つまり、半分は死ぬ)の手術を受けます。手術は成功しましたが、舌の大半を取ってしまったので結構な言語障害が残った。基本的に筆談ボードなしでは意思疎通は難しい体になってしまった。
いったい、舌がんの原因は何だったのか?
堀ちえみも舌がんステージ4だったけど
そういや、堀ちえみもステージ4か。彼女の場合、治らない口内炎がずっと続いたそうですね。
手術では足のももの肉を取って舌を再建。なにやら高額医療のイメージですし、天野はそもそもそれができないケースだったのかよくわかりませんが。
堀ちえみは手術から1年ほどして『徹子の部屋』に出演し、徹子と会話しています。「少し聞きづらいかな」程度で話している内容は理解できました。闘病で痩せることもなく(というか、むしろふっくら)健康そうに見えましたし。
タバコ1日6箱、虫歯18本って
先に引用したブログでは原因不明と書いている一方、他の日には「1日3箱から6箱吸っていて、さすがに吸いすぎでした。1箱ぐらいに抑えておけば、うちはガン家系でもないし、20代でガンにはならなかったように思います」と書いている。
中学生からの長い長いやんちゃ時代の果てに。酒は飲むしで、奨励会時代はかなり不摂生な生活だったらしくね。虫歯も8年間放置して32本中18本くらいあったと。
そんなに虫歯あったら口内環境がよかったはずもなく。結局、手術後、6本ほど抜歯されてます。これまたかーなりー痛かったそうですよ。
なお、病が発覚する前から「痩せた?」と言われることが増えていたそう。で、病院で体重測って本人もびっくら。
67キロあった体重がなんと56キロになっていた!!
がん告知された直後にも将棋選手権に出場
このように、天野さんのブログやツィッターやFacebookを遡っていくと、「アンタ!いい加減にせい」みたいな生活習慣が垣間見えるわけです。
写真を見ると結構なイケメンなのにちょっとこれは。虫歯18本は、ちょっとこれは。
上記の写真は手術のずっと後、著作の出版時ですから、虫歯は治療済ですが。
多分、今集中していること以外、まったくどうでもよくなってしまうタイプなのでしょう。初期のブログ(今はなし)では結構暴言も吐いていたようで、彼のアンチもいたりして5chには「自業自得だ!」みたいな心無い言葉も少なくない。
それでも、スゴイと思うのが天野貴元はおのれの「自業自得」をまるごと受け止めていること。
遊び過ぎてプロになれなかったことも、不摂生の果てにがんになってしまったことも、言い訳することなく一切合切引き受けている印象がある。一人、立ち止まらないで進んでいくというのか。
内心は相当ショックを受けている。だけど、ぐちゃぐちゃの感情をさらけださないだけの美学がある。野武士のようで、そこはやはり格好いいわけです。
退院後も精力的に活動し、アマ大会で東京代表になったり、優勝したりね。自分の弟子たちと天野杯を開催したりね。
障がい者になったことを淡々と受け止める天野貴元
YouTubeには天野が最強・将棋ソフト「ponanza」と対戦した中継画像が残っています。正直ね、ひどいと思われるかもしれませんが、この姿を見てうろたえてしまった。「言語障害が残った」と知ってはいたけれど、ちえみのそれとはまた違う。
【将棋】天野貴元 vs ponanza
彼が業界以外で知られるようになったのは名人のタイトル戦で記録係を務めていたから。奨励会員に似合わず、ワイルドな風貌がわれわれ庶民の目にも留まった。プロ棋士になったら人気出そうだと感じた人も多かったよう。
そんなワイルド天野が、筆談ボード掲げながら、聞き取りづらい肉声で「障がい者代表の天野です」なんて言う。彼が「障がい者代表」になったことにも何やらショックを受けてしまった。ひどいね、私。ごめんなさいね。
そうなのです。
彼は障がい者になってしまったことも淡々と受け止めている。以降も、どれほど症状が悪化しようとも「状況を冷静に受け止め、次の手を考える」姿が印象に残りました。
「普通の声」を失った僕だったが、そこに悲しみはなかった。もともと死ぬかもしれなかったところ、声を代償に差し出すことで、まだ生きることができる。それには感謝の気持ちしか浮かんでこない。(中略)僕には「生きる」という緊急の目標が降りかかってしまった。人間にとって、生きること以上に大きな目標はあまりない。
~~天野貴元著『オール・イン』
手術が終わって障害を持つようになり、(中略)できなくなった事はたくさんあるんだけど、とはいえできる事はあるという事。
選択肢が限られた人生の中で、好きな物を選んだり、好きな事をして働いたり、好きな人と恋したり。全然できるんだなっていうのを感じましたし、まだ社会復帰してませんけどハンデがあっても何とかなると思います!
~~ブログ「あまノート」2013年5月28日
ちなみに以下は上記ponanzaとの対戦後のツィート。私には何言ってるかさっぱりですが、結構楽しそうです。
残念ながら負けました。やはり中盤以降のパワーがもの凄いですね。
しかし最後の方の将棋、ポナンザ必敗形でしたね。途中55角と指すところで33金とすればポナが良くなりそうに見えましたが、55角は「審議ランプ」に思いました。— 天野貴元 (@amanoyoshimoto) March 1, 2014
余命10年を覚悟した後に余命1年を告知される
手術から1年後、天野は2014年の3月に『オール・イン』という自伝を出します。
発売当時、Amazonの将棋本ランキングで1位になったり。
本書で「自分の余命は10年くらいだと思う」と語っていた天野ですが、発売直後の5月にがんが再発。十年どころか、余命は半年から1年と言われてしまいます。
以下は、告知直前のSNSから。
今週から抗癌剤が再び始まりましたが、どうも調子が良くありません。
いつもと変わらないと思うんですが、なんか経験上嫌な予感がするので、今日は仕事をサボって休養しています(笑)
ひょっとしたらついに来てしまったのかもしれませんが、特に痛みがあるわけでもないし、来週の火曜に言われる結果が気になるところ。~~2014年5月14日のFacebook
一週間後、肺などの転移がわかり、医者からは余命も告げられます。
残念です。本当に残念です。今までベストを尽くしたとは言えなかったかもしれないけれど、少なくともガンと言われたその日から、マズそうな事はしてこなかった。手術はした、放射線もした、抗癌剤だってした、酒はほとんど飲んでない、タバコに関しては1本も吸ってない。これでも根治しないなら、さすがにもう無理な気がします。
~~「あまノート」2014年5月21日
落ち込んでいる様子は伺えますが、それでも読み手を思いやる程度に自暴自棄にはなっていない。
3日後には吹っ切れたようにこう書いています。
1つわかった事は、このまま普通に過ごしていれば、そう遠くない将来死ぬって事です。しかし、何をやっても死ぬのであれば、自分は積極的に動いて死ぬタイプだと思いますし、非常に厳しい状況ですがそんな中でも色々やって、最後までベストは尽くそうと思います。私が死ぬのは仕方がないにしても、次のガン患者が助かるような、未来につながる生き方をしていければ理想ですね☆
~~「あまノート」2014年5月24日
実はこの後にも文章は続いていて、やおら大会の話に変わっている。意識してやったのかもしれませんが、意識したとしてもこういう精神力は素晴らしい。
天野は自分の状態について赤裸々に発信していました。
治療は無事終了。麻酔と嗚咽と点滴で正直フラフラですが、ナースさんに無理言って[写メ撮って下さい]って言って撮ってもらいました。
例え助からないと言われても、必ず道はあるはずです。全国のガン患者の皆さん、お互い頑張りましょう。 pic.twitter.com/KIDXdy01PM— 天野貴元 (@amanoyoshimoto) June 18, 2014
MRI写真アップして「こんなデカいがん細胞がある!」みたいな話をしたり。もう後がないとわかった後、「肉体改造してみようかなって思います。もう負荷を上げていかないと助かる見込みがない気がするので、やります」みたいなことを宣言し、実際やって具合が悪くなったり(笑)。
いや、笑いごとではないのですが、天野本人はポジティブな自虐キャラでもあった。
(連休中、将棋、麻雀、競馬と豪遊して)
年内に死ぬと仮定した場合まともに働く気はしないからこんな感じで自由に暴れてるけど、これもし、
死ななかった場合、来年の生活費どうすんの?www
まあなんとかなるよね。←ダメ人間のよくあるパターン~~2015-07-21「あまノート」
闘病しててもスタンスはちょっとシニカルだったり、この辺、フリーライター奥山貴弘の『31歳、ガン漂流』に通じるものがあります。
体重が30キロ台まで落ちてしまう
ブログは軽いタッチでも、2015年の夏くらいから天野の体調はますます悪化します。
この頃には既に抗がん剤も拒否している。治る可能性があるならともかく、寝たきりになったり、頭がクリアーにならない状態で延命されてもって理由ですね。だって、将棋を指したいから。
天野はがん告知された直後も、再発して余命告知された直後も将棋選手権に参加していました。
アマ大会で優勝し、もう一度プロを目指すべく三段リーグ編入試験も受けている(結果は残念でしたが)。そういう生活を亡くなる直前まで続けていた。
将棋の良いところは、体がどんどんボロボロになっていっても脳さえしっかりしていれば半永久的に指せる事。色々揃えれば、本当に死ぬ直前まで出来ると思います。
~~2015年8月8日のFacebook
秋になる頃には体重が30キロ台まで落ち、口を開くと嘔吐してしまうような状態に。
都内だけでなく、地方にまで遠征してね。
『ザ・ノンフィクション~生きて 天野貴元30歳』
彼の最後の季節はフジテレビのドキュメンタリー『ザ・ノンフィクション~生きて 天野貴元30歳』に収められています。
ここにいる天野はSNSの中のひょうひょうとした彼とは違う。
番組のチーフプロデューサー、張江泰之氏が「シリーズ全体で一番印象に残っている回」だそうです。
「あまりに壮絶過ぎて、ナレーションを入れるのを私の判断でやめました。映像と音楽とテロップだけの究極のドキュメンタリーです」
~~張江氏。週刊ポスト2017年12月15日号
余談になりますが、張江氏はこの後、同番組で北九州監禁殺人事件の息子に取材し、大反響を得ています。
ともあれ、『ザ・ノンフィクション』のバックナンバーは動画配信のFODから見られますが、天野の回は配信されていない。他にも探したけれど動画は残っていない。
勝手な想像ですが、遺族がイヤがったのかな。これは親なら見るのがキツイ。いち視聴者でもキツイ。胸がかきむしられそうです。
まず、痩せた身体が苦しいです。フラフラの天野を支えるべく、予選大会に母親が同行。将棋盤に臨むも腕を動かすだけの体力もなく時間切れで投了したり。
インタビュアーが「負けて得るものってありますか?体調も悪いから今は負けることの方が多いじゃないですか」と尋ねる場面があります。
そうまでして大会に出るのはなぜ?的な意味合いだと思われますが、天野は答えるうちに号泣してしまう。
「(取材スタッフにも)来てもらって、母親にも来てもらって。予選まで・・・。勝てると思わなければ出なかったんで、情けないです。体力がなくて負けるなんてくやしいです。本当に。これを糧に次はもっと頑張りたいです」
このインタビューの3週間後、2015年10月27日に天野貴元は逝去。30歳。余命宣告から1年5か月後のことでした。
彼はブログ、ツィッター、Facebookを同時にやっていましたが、最後のSNSはFacebookに残されています。日付は2015年10月17日。
本当に空っぽになるまで生き切った人生という感じ。
その死から5年。直接の知り合いでもなんでもない私は普段はだいたい彼のことを忘れています。でも、たまには思い出すからね。これからもね。